【研究会開催】質的調査の教え方/学び方

2016年3月9日 by 事務局

来たる3月27日(日)に、研究会「質的調査の教え方/学び方——社会調査実習の経験から」を開催いたします。どなたでも参加いただけます。皆様、ぜひご参集ください。

【日時】2016年3月27日(日)14:00〜17:30

【会場】立教大学池袋キャンパス5号館第1会議室

アクセス https://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/direction/
キャンパスマップ https://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/campusmap/

【話題提供者】原田峻(立教大学)

【コメンテーター】山北輝裕(日本大学)

【問い合わせ先】NPOサーベイ事務局 info[at]survey-npo.jp

ご出席をお考えの方は、会場準備の都合上、あらかじめ事務局までご連絡いただきますようお願いいたします。

【趣旨】
社会調査を教える/学ぶことの「楽しさ」や「難しさ」

社会調査を「教える」ことや「学ぶ」ことも、社会調査の実践であり経験です。なかでも、学生が主体となって調査に取り組む社会調査実習は、学生にとっても教員にとってもその際たるものでしょう。

2010年に開催した研究会「調査実習という経験」では「学ぶ」側の実践に焦点をあてました。今回は「教える」側の経験や実践へとやや視点を移動させてみたいと思います。

もちろん「教える」と「学ぶ」という区分はあくまで便宜的なものでしかなく、強調することは意味がありません。そのことをふまえたうえで、授業を担当する教員側から見た時、社会調査実習という経験は、どのようなものなのでしょうか。

今回話題提供をしてくださるのは原田峻さんです。原田さんは、社会調査実習として、質的調査クラスを担当され、学生とともに福島原発事故による避難者の方々へのインタビュー調査に取り組まれています。実習の概要、教員としての関わり方、現場(フィールド)との関係、についてお話しいただく予定です。

昨年度に初めて社会調査実習を担当された原田さんにとって、この実習は「試行錯誤しながら」だったといいます。学生が「主体」となる調査、そこに教員として、どこまで、どのように関与するのか。原田さんもまた調査者として関わっている現場(フィールド)に、
どのようにして学生とともに入り、どう関わるのか。2年間の実践をうかがいます。

また今回は、山北輝裕さんをコメンテーターにお迎えします。山北さんは、野宿者支援団体のフィールドワークに取り組まれ、参与観察などの質的調査法や現場と調査者との関係について、実践と考察を重ねられています。山北さんからのコメントを1つの起点に、質的調査の教え方/学び方を考えてみたいと思います。

社会調査に関心をお持ちの方、いま社会調査を教えている方や学んでいる方、これから教えることになるかもしれない方、そんな方々と社会調査実習の実践をゆるやかに共有しながら、社会調査を教える/学ぶことの「楽しさ」や「難しさ」について、少しばかり、ゆっくりと話ができる機会にできればと思います。

ご来場をお待ちしています。

ワークショップ開催「僕たちが戦争を生きた同級生に会いに行くためのアーカイブス」

2014年4月9日 by 事務局

来る5月10日に、「僕たちが戦争を生きた同級生に会いに行くためのアーカイブス」というタイトルで、ワークショップを開催いたします。

ワークショップはどなたでも参加できますが、資料・会場準備の都合上、ご出席をお考えの方はあらかじめ事務局までご連絡をお願いいたします。

【タイトル】 
僕たちが戦争を生きた同級生に会いに行くための
                   アーカイブス

【話題提供者】 
土屋大輔(慶應義塾大学)

【日時・場所】 
2014年5月10日(土)14:00~17:00
立教大学池袋キャンパス 本館2階1203番教室
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/campusmap/

【問い合わせ先】 
NPOサーベイ事務局 info@survey-npo.jp

【趣旨】
戦後70年が経過しようとしている現在、戦争を体験した世代の減少が進み、当時の体験を語ることの出来る人びとが少なくなるなかで、戦争の体験や記憶をいかに継承するのかといった問題がいよいよ深刻なものとなっています。

戦争を体験した人びとと同時代を生きる私たちは、戦争の体験や記憶といかに向き合うことができるのでしょうか。

今回のワークショップでは、「太平洋戦争クリエイティブアーカイブス」プロジェクトを進められている土屋大輔さん(慶應義塾大学)に話題提供をお願いしました。

このプロジェクトでは、「70年前の同級生に会いに行く」といったコンセプトの活動が進められています。

それは、現在の学生が中心となって戦時期に学生として戦争を体験した「70年前の同級生」とのインタビューを行い、現在の学生と「70年前の同級生」との対話の中で語られる記憶や、そこで巻き起こる感情をもとに、映像作品、絵画、パフォーマンス等の「芸術作品」を制作し、アーカイブしていくというものです。

そこで今回のワークショップでは、このプロジェクトの詳しい内容についての話題提供をもとに、広く戦争とアーカイブをめぐる諸問題について考える機会としたいと考えております。

また、このプロジェクトの趣旨に賛同し、「芸術作品」の制作に参加していただける学生を集めるための機会としたいと考えております。お近くにご関心をお持ちの学部学生等がいらっしゃいましたらぜひお知らせの上、ご参加いただきたいと思います。

調査を語る(8) あとがきに代えて

2014年3月24日 by 松尾浩一郎

連載「NPOサーベイ、調査を語る」も今回が最終回になります。最初の2回はビデオ映像「東京大空襲調査のフィールドから」(前編後編)を、第3回から第7回までは座談会の様子をお伝えしてきました。いかがだったでしょうか。これまでご講読くださった方々には御礼を申し上げます。最後にまとめとして、映像制作や座談会に関わったサーベイのスタッフより「あとがき」に代えて、これまでの連載を振り返りたいと思います。

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現地撮影・映像編集のあとがき
岩舘 豊

撮影当日は、薄曇りの肌寒い天気でした。集合場所には時間通りに着き、身体のコンディションも悪くない、機材もしっかり揃っている。準備万端なはずなのに、撮影に臨む前としてはどこか心許ない、というのが正直な心境でした。撮影の焦点をどこに据えるのか、そのことが自分のなかでしっかりと定まらないまま、当日をむかえてしまったからです。

ああでもない、こうでもないと考えあぐねているうちに、撮影が始まり(始まってしまい!)、出たとこ勝負で、少しずつ焦点を模索しながらカメラをまわし始めました。しかし、木村さんに様々な場所を案内していただき、話を聴いているうちに、それが何だかはまだよく分からないが「何か」が撮れているような感覚がありました。撮影が終わって帰宅した後にも、現地で感じた「何か」がしっかりと身体に残っていました。少し余談ですが、僕は、自分がインタビューする時やどこかにフィールドワークに行く時に、そこで見て聞いて歩くなかで自分の身体にインプットされる「何か」があるかどうかが大事だと思っています。

とはいえ、その「何か」を探りあてるのには少し時間がかかったのですが、映像を見直すなかで、木村さんが発していた「傷あと」という言葉が一つの手がかりになりました。両国公園、言問橋の欄干、いくつもの碑といった、具体的な場所やモノをまなざし、触れ、事実を掘り起こす。そして、見ることのできる痕跡を手がかりに、現在はほとんど目には見えない「傷あと」を見ようとしている調査の一端が、この映像には写っているのではないか。そうした考えに行き着き、「傷あと」を軸に編集を行いました。

また、後篇2分50秒から始まるインタビュー映像では、調査を始めたきっかけ、調査の「問い」、方法とその難しさ、調査を続ける動機について、調査者である木村豊さんが自ら語ってくれています。その語りは、社会調査の営みの実際を示してくれています。そして何よりも、そのしずかな語り口と表情が、フィールドでご遺族の話にじっと静かに耳を澄ませている調査者の姿を、ある意味では語りよりも雄弁に示していると思い、「はなしをしずかにきく」がもう一つの軸となりました。

「サーベイ、調査を語る――東京大空襲調査のフィールドから」は、前篇10分4秒、後篇8分56秒の映像です。映像には、撮影し編集する側の意図や視点が否応なく込められています。他方で、映像をつくった側の意図しないものやその時には見えていなかったものまでも記録し映し出すことがあるのも事実です。この映像には何が映っているのか。映像を見てくれた皆さんからご意見・ご教示を切にお待ちしています。そして、この映像が社会調査という営みを考えるための対話を促進する一助となれば幸いです。

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感想
上村勇夫

木村さんの研究フィールドを体感させていただきながら、私が感じた木村さんの調査方法における魅力的な点を記したいと思います。

結論から述べると、「現場に居合わせる」ことを徹底して重視している姿勢に魅力を感じました。私がそのように感じた理由としては、その研究スタイルの中に、木村さんの真実に迫ろうとする執念が垣間見られ、その迫力に圧倒されたからです。単なる論文執筆のための調査ではない。時には端から見ると一見「無駄」と思えるような突撃インタビューを敢行されているとのこと(例:戦災地蔵に毎日花を供えている人を待ち伏せて、聞き取りをする。)。しかもそのような活動の積み重ねが木村さんの自信と研究基盤を作り上げることにつながっている。真実に迫る足がかりとして、「現場に居合わせる」活動が重要な役割を担っていると感じました。

今回の企画のおかげで、若干論文作成に意識が行き過ぎている自分を顧みることが出来ました。私も木村さんのような勇気を持ち、今後自分の研究を深められるような活動に邁進していきたいと実感できました。木村さん、ありがとうございました。

調査を語る(7) 一見無駄な調査を積み重ねる

2014年3月20日 by 松尾浩一郎

連載「NPOサーベイ、調査を語る」も第6回目になりました。木村豊の東京大空襲調査をめぐっての座談会の模様をお伝えしています。前回は〈そこに居合わせる〉というフィールド調査のひとつの原点のようなものについて話し合いました。それを受けて、今回は一応のまとめへと話は進んでいきます。

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一見無駄な調査を積み重ねる

(松尾)木村くんがこれまで話を聞かせてもらった人は何人ぐらい? 100人とか、それとももっとたくさん?

(木村)そうですね、ちゃんときいたのは。

(松尾)ちゃんとじゃないのも入れたら、もう数えきれない?

(木村)そうですね。

(松尾)じゃあ今までちゃんと聞いた100人ぐらいのインタビューは、録音をとって、全部整理してある?

(木村)1時間とか2時間かけてインタビューをしたものは、だいたいしてありますね。横網町公園で、ちょっといいですか、みたいに聞いたのは、テープ起こしはしていないものもたくさんありますけど。

(松尾)でも、2時間のインタビューを起こしたら何十ページにもなるでしょう。それが100人分もあったら、すごい分量になると思うんだけど、自分で消化できてる? あまりにも量が多いとテキストマイニングとかも考えてしまうんだけど。

(木村)それに何度もインタビューを繰り返している人もいて、一番多い人でたぶん30回以上インタビューして、録音データが百何時間あります。そういう人から、1回2時間聞いただけっていう人までいて、完全には把握できていないかもしれないんですけど、だいたいのイメージは……。

(松尾)その百何時間の人へのインタビューも、まだ継続中? まだまだ汲めども尽きぬ感じ?

(木村)そうですね、まだ新しいことがありますね。

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「結論は求めない」

(上村)現段階での自分の設定したテーマに対する結論みたいなのは、あるんですか。見えているというか。

(木村)研究全体に対する結論みたいなのは考えたことないですね。

(上村)例えば、博士論文の中では、ある程度の結論みたいなのを切り取って提示する必要は出てくるわけですよね。

(木村)そうですね。いくつかの論文を掛け合わせた中での結論は出しますが、まあ、前提的なものとして。

(松尾)でもそういうふうに、すぐ結論を求めることもなく、一見、無駄に見えるようなことを積み重ねるからこそ、あの人とその人がここですれ違ってたとか、そういう面的なものを描けるんだなってことも、すごく感じますね。現場主義の調査ってよく言うけども、やっぱり、いろんな現場主義のやり方もあって、なかでも木村君のはユニークというか、すごいなって思うところが色々あるなって。

(木村)無駄は多いですね。例えば、モニュメントの悉皆調査をやっていて、墨田区・江東区・江戸川区・台東区って4区の大空襲のモニュメントを全部調べて、関係者に聞き取りとかをやっているんです。全部で75のモニュメントがあるんですけど、その75個にも5,6回ずついっていて。正直社会学の調査なら1回行って碑文だけ読んで、論文にしちゃうだろうなと思ってるんですけど、この町会の関係者は、今どこどこに住んでいてとか、なんか、そういうのをできる範囲で調べていこうと、こう、やっていて。

(松尾)それは無駄だとは自分では思ってないからやってるんでしょう。

(木村)そうですね、でもきっとこれは無駄だと思われてるだろうなっていう感覚はあります。

(松尾)論文を作るってことだけが目的なら無駄かもしれないけれど、やっぱり調査はそれだけではないからね。だから、伝統的なかたちの論文にまとまらない調査の成果を認めるような風土というか、風潮があるといいよね。他人の評価を求めるのが目的じゃないかもしれないけど、調査者の関心に沿ったような評価基準があるといいと思うんだけども。

「戦災地蔵の調査で得た自信と飛躍」

(松尾)では、一見無駄に見える調査に何度も何度も行っているのは、何の役に立つというつもりでやってるんですか?

(木村)無駄の究極なところでいうと、戦災のお地蔵様がたくさんあって、東京大空襲で亡くなった方を供養するために作られたものですけど、行くたびにきれいなお花が飾ってあって、あの、水も添えてあって。町会に聞いても、誰かやってくれてるみたいだけど、だれだろうねっていうのがあって。これは調べてみようと思って、一週間朝から張って、本を持って行って、読みながら待ってたんです。恐らく朝だろうと思って、午前中いっぱいぐらいですけど、で、お花をお供えしている人を見つけ出すことができたんです。で、ちょっと話を聞かせて下さいって言ったんですけど、なんか親が空襲で死んで、特に理由はないけど、その親のためでもあるしっていうことで、インタビューとしては、10分ぐらいで終わっちゃって、それから、インタビューっていうインタビューはできないままなんですけど。10分間だけの資料で、大したインパクトのないものになったんだけど、それをやるためにこの3日、4日ぐらい無駄にしたのかって思ったんですけど、でもやってよかったなって気はして。

(松尾)うん、すごくうれしそうに自信満々に話してるから、本当によかったんだろうなっていうのが伝わってきます。

(木村)それはその、論文にすごい価値あるとか、それで凄い分析ができたとかっていうんじゃないですけど、それをやって、その戦災のお地蔵様を見る上で、自分の、研究の、こう、研究者としての飛躍をするような、自信をもって書けるみたいな……。これについてはもう、自信を持って書けるっていう。それはデータの正当性とか、これだけあれば十分だとか、そういう次元の話じゃなくて、これは書いていいんだっていう風になったっていうことなんです。

(松尾)それは本当にいい話だね。やっぱり、そういう調査者として、研究者としての自分の体験っていうのは大事だよね。何を感じたのかとか、覚悟とか。

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4人の会話はまだまだ続いたのですが、連載記事としてはここで一区切りとしたいと思います。いかがでしたか。座談会というよりも放談のようになりましたが、サーベイのスタッフたちの社会調査観の一面をご披露できたかなと思います。

連載はもう少し続きます。次回もご期待ください。

調査を語る(6) そこに居合わせること

2014年3月17日 by 松尾浩一郎

連載「NPOサーベイ、調査を語る」の第6回です。東京大空襲調査をめぐる座談会が続いています。前回は〈容易に語られ得ない、沈殿していくような社会〉とでも言うべき〈何か〉を、いかにして調査するのかが話題になりました。今回はその続きです。そこに居合わせることの意味とは?

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そこに居合わせること

(岩舘)毎年慰霊堂に行くって話だけれども、後から聞くのと、その場に居合わせて聞くのでは違うっていうのはすごく分かる。あとからこういうことがあったんですよって、事実レベルで同じことを聴いていることなんだけども、その場に自分も居合わせて、時間と場所を共有しながら、ここにいるんだよねっていうのを聞くっていうのは、質的に違う。居合わせるっていう感覚っていうのは、すごく分かります。

(松尾)それは岩舘さんが映像を撮っているから感じられること?

(岩舘)そうですね、そういう意味合いもあります。後から詳細に詳しく事実を聞き取るのに比べれば、そこで取ったフィールドノートっていのは、事実としては不十分かもしれないですけど、その場に居合わせてしまうと、そこで巻き込まれてるわけだから、ぐじゃぐじゃなんだけども、大事なものをつかんでたりするんですよね。それって、居合わせないといけなくて。

(松尾)居合わせることで伝えていくっていうのは、基本的にジャーナリストが本領発揮するところじゃない? あまり区別しなくていいかもしれないけども、あえて区別するなら、ともかく居合わせるっていう考え方と、いわゆる研究をするっていう考え方みたいなものがあって、それがどういうふうな割合で組み合わさっているのか興味があるんだけど。木村君はそういうことについて何か意識したことありますか?

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(木村)やっぱり、けっこうメディアの人と一緒になるので、自分とどういう距離があるのかっていうのは考えるんですけど、最初のころは、すごい敵対していたような感じがありました。メディアの人はちょっと話をしていても、自分の方が詳しんだっていうような雰囲気がすごくあって。何も分かってないのに研究とか言いやがってみたいな感じがして。その頃はなんだって思ってたんですけど、年数重ねると、当然こちらの方が詳しくなって。なんか、がんばってるなっていうか。メディアとは距離をとるっていうよりも、近いものとし見るようになったって感じがします。

(松尾)岩舘さんは?

(岩舘)あんまり分けてるとか、差別化をはかろうとかって、自分の中では思ってないですね。ただ、自分が調査している労働運動の現場でも、結構一時期話題になったのでメディアの人が来るようになったんですけど、やっぱり、基本的に短いですよね。記者としても短い、いる時間も短い。で、あらかじめ撮るもの定めてきてて、撮って帰るっていう。
確かに居合わせているし、いるんだけど、それはその場に行くのが情報を取るのに一番早いから来ているって感じで、その場にいて、そこで撮ってる、産地直送で生で情報送るっていう発想の方が強い。なので、そこに行って何かを、その居合わせたものを大事にするって感じではない気がしたんですよ。そこに行くのが一番情報収集として早いからだって。そこに一番たくさんいい情報があるっていう、そこの点では共通するんだけど、それをもとに、じゃあ,別の見方なり、複数の見方が実はあるんだって、発想はあんまりない気がして。
いいフィールド調査は、むしろそれが崩れていくときじゃないですか。フィールドに入って崩れていくときに、やっぱりいい調査ができてくると思うので、特に大きなジャーナリズムは、短時間で取材を終えて次の現場に行かなくちゃいけない。スケジュールが組まれてるから、それで行って、ストーリー崩れましたって、たぶん言えない、そこは時間考えてる、データ処理の速度が尺が違うんだろうなって。

(松尾)同じところに居合わせていても、見えるものが同じとも限らないしね。そういう意味で、居合わせるっていうのを木村君も大事にしてるんだろうけども、いれば見られる、分かる、感じるっていうのは、必ずしもイコールではないでしょう?

(木村)居合わせたからと言っても、自分が見ているものをすごい知ったようなつもりになっているけれども、自分が見たものは、ごく一部でしかないってことは当然すごくありうることだとは思います。でも私の場合でいうと、恐らく来年も来るだろうという想定があるので、今年は、ここが見れればいいっていう方が強くて、そもそも、一年や二年じゃあ、あの、論文になるとは思ってはいないですし。

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議論はだいぶ佳境にさしかかってきました。次回はとりあえずのまとめになります。(つづく)