‘小倉 康嗣’ カテゴリーのアーカイブ

12月4日「調査実習という経験」趣旨

2010年11月16日 火曜日

12月4日(土)のイベントで司会を務めさせていただく小倉です。速報でお知らせしましたとおり、次回のイベントは「調査実習という経験――調査は研究のためだけのもの?」というテーマで開催します。

社会調査士資格も創設され、研究者になるわけでもなく社会調査を学ぶ人が多くなりました。では、そうした人びとにとって、調査をするという経験はどんな意味をもっているのでしょうか。それを考えることは、社会調査そのものの意味、さらには社会のなかの社会調査ということを、ひろく・ラディカルに問うことにつながっていくでしょう。

そこで、今回のイベントでは、一年間の調査実習を経験し、現在は社会人として活躍されている方を中心とした元実習メンバーと、その担当者をお呼びして、彼・彼女らの声に耳を傾けてみたいと思います。

お呼びするのは、明治学院大学で社会調査実習を担当されている石川良子さんと、その元実習メンバー4人の方々です。

石川さんは「一年という時間をかけて、ちゃんと人と出会うこと」を大事にされ、元実習メンバーの方々も、つまずいたり挫折したりしながらも、途中で諦めることなく最後までそれを実践しつづけました。

それは、いったいどんな経験だったのでしょうか。元実習メンバーの方々は、さまざまな困難に直面しながらも、なぜ諦めようとはしなかったのでしょうか。また、一年を通してひとりの他者とじっくりつきあうという調査経験から、なにを得たのでしょうか。そしてその調査経験は、彼・彼女らの人生において、その後の社会生活において、どんな意味をもっているのでしょうか。

調査経験の社会的意味、調査と社会とのかかわり、さらには社会科学と人間とのかかわりについて考える、かっこうの機会だと思いますので、みなさま奮ってご参加ください。

会場などの要綱につきましてはこちらの記事をご覧下さい。

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NPOサーベイは、専門研究者のためだけではない、社会調査の大きな広がりに眼を向けていきたいと考えています。

前回のイベントでも、研究者はもちろん、現場の方、行政マン、実務家、学生、生活者と、当NPOならではの参加者が集い、横断的でざっくばらんなコミュニケーションがくりひろげられました。

今回も、いろんな立場の方々が参加してくださることを、とても楽しみにしております!

調査表現と〈参与する知〉(5・終)

2010年10月26日 火曜日

(前回からのつづき)

またまた前回からずいぶん間があいてしまいましたね。ごめんなさい。このブログ連載で展開してきた主張の要諦である〈知見の生成性〉ということを最後に確認して稿を閉じたいと思っていたのですが、ぐずぐずしているうちにあっというまに時間がたってしまいました。ですがそんな折、その要諦とシンクロするような話題が、ある研究会で議論になりました。そこで、いい機会なのでその話題を契機に、この一連のブログ連載をふりかえりながら最終稿を記したいと思います。

研究会で議論になった話題とは、こういうものでした。ライフストーリー研究では、調査過程における調査協力者(語り手)と調査者(聴き手=書き手)の相互行為を開示し、ライフストーリーを解釈・分析する調査者自身の自己反省的な語りをも俎上にのせていく「自己言及的なスタイル」が定着しつつある。しかしそれは、いったいなんのためのものであり、なにをもたらすのか。じつはそれはあまり明確に主張されていないのではないか。

なぜこのようなことが話題になったかというと、最近、ライフストーリー研究のこの「自己言及的スタイル」に対して、「誠実さゆえのある種の閉塞感を感じてしまう」「開示のための開示となり、他者不在になってはいないか」「(自己言及的スタイルが)生を創造的に捉えることにどうつながるのかわからない」といった疑念や批判を耳にするようになったからでした。

これらの疑念や批判は、ライフストーリー研究の「自己言及的スタイル」それ自体が本質的に招くような疑念や批判ではないと思います。ですが、なんのための「自己言及的スタイル」なのかという「なんのために」という部分が、本来の意図からずれて(あるいは局所的なところに偏向して)受けとめられてしまいがちな雰囲気があって(その雰囲気については、ぼく自身も強い違和感を抱いています)、それに対する疑念や批判なのではないかと考えます。

つまり、その「なんのために」が、あたかも調査(者)がどれだけ誠実かを証明するための手続きかのごとく、調査者の倫理や責任の問題に(いささかマスターベーション的に)回収されて受けとめられてしまいがちであること。それゆえ、調査者(聴き手=書き手)が調査協力者(語り手)にどれだけ寄り添えて(その実、一体化できて)いるか、あるいは逆に「わかりえなさ」をわかっているか、といったことばかりが競われるような雰囲気が醸成されてしまっていること。それこそが問題なのではないかと思うのです。

というのも、聴き手であり書き手でもある調査者は、調査協力者(語り手)の語りを創造的に異化する開かれた存在であるはずです(もちろん逆に、調査者は調査協力者によって異化される存在でもあります。そうやってお互いが変わっていくなかで新たな現実が構成されていくのです。それが第1回で「人間関係としての社会調査」「人間の相互的・社会的コミュニケーションとしての社会調査」と言ったゆえんです)。ところが、上述のような雰囲気のなかでは、調査者が内閉してしまい(コミュニケーションが相互的なものではなくなってしまい)、語りや知見が創造的でなくなってしまうからです。

では、なんのための「自己言及的スタイル」なのでしょうか。そして、それはなにをもたらすのでしょうか。

(さらに…)

「NPOサーベイ」像をたしかなものにしてくれた一周年記念イベント

2010年9月6日 月曜日

ささやかな足どりではありますが、みなさまのご支援・ご協力のおかげで、NPOサーベイが満一歳の誕生日を迎えました。最初はなにからなにまで暗中模索の状態でしたが、一年を経て、ようやくこのNPOのアイデンティティといいますか、固有の意義について、ぼくのなかで像が結ばれてきたように思います。

社会調査の制度・しくみが高度化し、窮屈で画一的な調査の道具化(ぼくは「社会調査のマクドナルド化」と言っているのですが…)が進行しているように感じる昨今、調査会社でも、シンクタンクでも、大学の形式的な調査プログラムでもない、むしろそこからこぼれ落ちるものの受け皿(コミュニケーションの場)をつくり、社会調査に関するさまざまな困難や障壁を乗り越えていくためのつながりの場としていくこと。そこから社会調査の面白さと奥深さを再発見していくこと。そのために、「社会調査をするひと」だけではなく「社会調査を受けるひと」「社会調査を学ぶひと」「社会調査で知りたいひと」をつなぎ、それぞれの立場からの経験をもちよって、失敗やためらい、迷いを相談し、検討しあえる場をつくっていくこと。それが、ぼくのなかで少しずつ結ばれてきたNPOサーベイ像です。

7月31日に開催した設立一周年記念イベント「社会調査懇談会――その悩みや思いを語る」も、そんな「場」づくりの一環として企画したものでした。

研究者はもちろん、現場の方、行政マン、実務家、学生、生活者と、当NPOならではの参加者が集い、「現場に役に立つ調査研究とはどういうものか」「そもそも役に立つとはどういうことなのか」「複雑な現場と、テーマや変数を絞らなければならない研究の作法と、私の思いとのあいだの葛藤を、どう解決していけばよいのか」「研究者からヒアリング調査を受けることが多々あるが、必ずといっていいほど自分が言ったことがちゃんと伝わっていないのはなぜか」「当事者ではない人間が当事者の体験をききとることとは、結局どういうことなのか」「目の前のひとに役立つ研究と、論文として成り立つ研究をいかに両立させていくか」「調査につきまとう政治性と調査知見をフィードバックすることの困難性」「調査することの迷惑」等々、それぞれの立場ならではの意見が率直に述べられ、自由闊達な議論がおこなわれました。

参加者の西倉さんも感想を寄せてくださったように、けっして論文化されないけれども、社会調査の根源にかかわってくるような、セルフヘルプ的なコミュニケーションがそこに展開されていたのではないかと思います。なにより、とつとつと正直に語られる参加者のみなさんの表情がよかった!

現実を共同構築していく時代の社会調査ということに思いを馳せるとき、もしかしたらこれは画期的な場になっているのではないか。ささやかなものかもしれないけれど、エキサイティングでチャレンジングな場が生成されているのではいか。そんな実感を抱きました。

その意味で、このイベントは、ぼくのなかで少しずつ結ばれてきていたNPOサーベイ像をたしかなものにしてくれる(そして、今日の社会調査をめぐる課題と可能性を鋭敏に直視させてくれる)、そんな貴重なひとときになりました。

そんな「場」をつくりだしてくださった参加者のみなさんに、厚く厚くお礼申しあげます。

研究会レジュメ

2010年5月6日 木曜日

2010年4月24日(土)の研究会「調査という表現」での報告レジュメをアップしました。「いかに描き、いかに伝えるか」「作品の社会的実践性」などについて取り上げています。

[こちら]をクリックすればPDFファイルが開きます。

  小倉康嗣「調査という表現:質的調査を伝える戦略」

調査表現と〈参与する知〉(4)

2010年3月17日 水曜日

(前回からのつづき)

前回からすこし間があいてしまいましたね。ごめんなさい。
私が担当しているこの一連のブログでは、調査表現をめぐる問題を、私が社会調査の営みにおいて実践してきた〈ライフストーリーの知〉の観点から、拙著の調査表現の試みを事例にして考えています。
今回は、拙著の調査表現の試みに込めた学問的意味を、とくに研究の社会的実践性をどう考えるかという観点から述べてみたいと思います。

これまで見てきたような拙著の調査表現(作品提示)の手法は、研究作品によって読者の経験を触発することも、学問の実践性として社会生成の重要な回路ではないか、という考えから編み出したものでした。それは、第1回めのブログ(2009年11月21日付)で指摘した、学問(社会調査)それ自体が社会過程の一部であるという認識を、作品=表現として具体化する作業でもありました。

拙著でのインタビュー調査によって構成された知見に、〈〈経験〉のミメーシス的ジェネラティビティ〉という概念があります。これは、「個人vs社会」の枠を超え出て紡がれていく〈経験〉(生活経験・身体経験・生命経験の重層的連なりとしての根源的経験という意味で山型カッコをつけています)の生成継承性を概念化したものでした。旧世代の〈経験〉が新世代によってミメーシス的に継承され、再構成され、新たな生(life)が生成されていく、そんな存在論的つながりです。

拙著では、前回(第3回)のブログで見たような調査表現(ライフストーリーの提示手法)をとることで、本調査研究の一連の〈経験の実践プロセス〉(前回指摘した三重の生成のらせん)を読者に追体験してもらい、そうすることで、インタビュー調査によって発現した〈経験〉が読者にミメーシスされる(みずからの生をそこに重ね合わせ、創造的に学ばれる=真似ばれる)ことを企図したわけです。

それは、研究作品それ自体を通じた〈〈経験〉のミメーシス的ジェネラティビティ〉の惹起、という社会的実践性を意識してのことでした(いわば調査知見と再帰的な調査表現によって、知見を読者に伝えていく試みでした)。その意味で、拙著で試みた調査表現は、研究の社会的実践性をどう考えるのかという問題と不可分な関係にあるわけです。

上述のような〈経験の実践プロセス〉が分厚く記述されることは、とくにライフストーリー研究の調査表現においてきわめて重要なことであると私は考えています。それは、そのプロセスの描出が調査協力者のライフストーリーの文脈(社会的位置づけや背景)を明確化するという意味をもち、知見や解釈の妥当性や信頼性にかかわってくるからということももちろんあります。ですが、それだけにとどまらず、なによりもそのプロセスを提示することで、拙著の知見が読者自身の経験のストーリーの再構成(生成)へと開かれていくからです。

つまり、どのようにしてその知見に到達したのかという、知見が生成されてきた〈多層多元な関係的コンテクスト〉=生成のらせんを読者に生々しく突きつけ、そのことによって読者の経験の参与可能性(経験の重ね合わせの可能性)が開かれていくからです。そして、これこそが〈ライフストーリーの知〉が切り拓く研究の社会的実践性であると考えます。

かつて、内田義彦は「社会科学でも思想としての滲透力、心のうちに深く入ってそこから働きかける力を一般の人に対してももっていなければならない」(内田義彦『作品としての社会科学』岩波書店)と述べました。また、ケネス・J・ガーゲンは「理論の文化的参加の文脈」の重要性を指摘しながら、「この文脈において最も重要なのは、様々な文化的参加を呼びかけうる人間科学的対話である。文化は、いかにして、科学の中核的命題を、自らの実践のために利用するのか? どうすれば、科学者コミュニティを、文化の声に耳を傾ける開かれたコミュニティにすることができるのか? 科学の中核的命題群のもつ文化的価値を探るために、どのような自省的プロセスがスタートできるだろうか?」(ケネス・J・ガーゲン『社会構成主義の理論と実践――関係性が現実をつくる』ナカニシヤ出版)と問いかけています。

〈ライフストーリーの知〉は、この「人間科学的対話」の幅=コミュニケーションへの参与可能性を広げ、深めていく役割を担っていると思うのです。つとに指摘されてきた「ライフストーリーを提示する」という回答の仕方がもつ意味(井腰圭介「記述のレトリック――感動を伴う知識はいかにして生まれるか」中野卓・桜井厚編『ライフヒストリーの社会学』弘文堂 所収)のひとつも、こ こにあると考えます。その意味で、ライフストーリー研究を「作品」という言葉で表現するのは、「人々の心に直接にうったえる文学作品に通ずる文体や構成を示唆するとともに、社会科学の研究と表現についての方法概念」(長幸男「解題」内田義彦『作品としての社会科学』岩波書店 所収)でもあるからではないでしょうか。

学知が生成される学問活動の土壌は、人びとの〈経験〉の土壌と地続きであり、研究という営みは、その地続きの土壌における関係性のなかで実践的に検討され、吟味されていくべきものでしょう。
拙著の調査表現の試みは、この関係性が現実をつくっていくプロセス=社会的実践性のなかに学問(社会調査)があるということを再帰的に自覚し、そこに参与していくための学的表現の試みだったのです。

(つづく)