2010年2月 のアーカイブ

勝手に撮るな !?

2010年2月25日 木曜日

これまで数回にわたって、ドキュメンタリー写真ないしフォト・ジャーナリズムが社会調査と交差するところについて書いてきました。今回はそれを受けて、少し脱線しすぎな気もしますが、写真家ウォーカー・エヴァンズ(Walker Evans 1903-1975)について話してみようと思います。

エヴァンズはドキュメンタリー写真の巨人といってもいいでしょう。とくにアメリカ連邦政府のニューディール政策の一環として行われたFSAプロジェクトの一員として、アメリカ南部の農村や町を撮影した一連の作品はよく知られています。(FSAプロジェクトについては、いつか改めて話題にしたいと思います)

今日は多岐にわたる彼の作品のなかでも、異色作ともいえる一冊を取り上げたいと思います。Many Are Called (1966) と題した写真集です。現在でも美しくリプリントされた版(Yale University Press, 2004)が流通しています。

この写真集は1966年に出版されていますが、撮影されたのは1930年代末から1940年代初頭です。なぜ出版までに時間がかかったのか? いろいろな理由があったようですが、その答えのひとつは収録された写真の「撮られ方」にあるような気がします。


これらの写真は地下鉄の車内で隠し撮られたものなのです。エヴァンズはコンパクトカメラをコートの中に隠し持ち撮影しています。場所はニューヨーク。彼は大都市の地下鉄に乗り合わせる多種多様な人々の無防備な表情を捉えていきました。

彼の試みは極めて質の高い作品として結晶したといえるでしょう。ちょうど同じ頃に大都市の匿名性や都市的生活様式などを論じたシカゴ学派の都市社会学者たちの念頭には、こうした人たちの姿があったのかなあと感じます。


プライバシーの保護はドキュメンタリー写真にも社会調査にも不可欠なのは言うまでもないことです。しかしエヴァンズのこれら写真は、隠し撮りという方法を必要とするものでした。

隠し撮り(あるいは covert research)をすること自体いけないのか、発表することがいけないのか。撮影後に承諾を得ておけばOKだったのか。50年なり100年なりの時が経てば発表していいのか。モザイクは? エトセトラ、エトセトラ。簡単には答えが出ない悩ましい問題です。

研究会のお知らせ・続報

2010年2月24日 水曜日

4月24日(土)に開催する「調査という表現」をテーマとした研究会の会場等が決まりましたのでご案内いたします。内容につきましては前回のお知らせもご覧下さい。

どなたでもご参加になれます。ぜひお運びください。

テーマ:「調査という表現--質的調査を伝える戦略」(仮)
報告:小倉康嗣、松尾浩一郎
司会:大島千帆

日時:2010年4月24日(土)15:00~18:00
会場:立教大学 池袋キャンパス
   7号館 2階 7201教室

会場については下記キャンパスマップをご覧下さい。
  http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/campus.html

ご出席いただける方は事前に info[::]survey-npo.jp までご連絡いただけると幸いです。上記アドレスの [::] は @ に置き換えてください。お待ちしております。

研究会のお知らせ

2010年2月16日 火曜日

2010年4月24日(土)に「調査という表現」をテーマとした研究会を開催することとなりました。どなたでもご参加になれます。

会場など詳細は未定です。決まり次第ウェブサイトやメールマガジンにてご案内いたします。

テーマ:「調査という表現−質的調査を伝える戦略」(仮)
報告:小倉康嗣、松尾浩一郎
司会:大島千帆

 趣旨:

ケン・プラマーは質的調査論の名著 “Documents of Life” を2001年に改訂するにあたり、‘Writing Life Stories’ と題した章を付け加えました。彼はこう主張します。「書くこと」は語られない秘密になっているが、読み手とのコミュニケーションはむしろ調査研究の核心なのだ、と。

私たちもこの意見に同意します。質的調査への関心が広く共有されるようになった現在、統計などでは描き得ない豊かなリアリティを捉えるための調査方法論が、様々な角度から議論され工夫されるようになりました。しかし、調査者がフィールドで感得できたリアリティは、はたして実際の報告や論文の読み手にはうまく伝わっているでしょうか。

私たちは「リアリティの表現」という面で、今日の質的調査は大きな弱点を抱えているように思います。

フィールドでの語りを正確に再現しようとするあまり逆に無味乾燥な記述になってしまった例や、発表時の字数制限に屈して質的調査の命であるはずの「質」がスポイルされてしまった例などに接すると、「質的調査を伝える戦略」の不在を痛感させられます。

私たちは数年来「表現」の問題を意識しながら調査をすすめ、研究をまとめることに取り組んできました。報告者のひとりである小倉は、その成果として『高齢化社会と日本人の生き方』(慶應義塾大学出版会 2006 年)を出版しました。もうひとりの報告者である松尾は、社会学者の視点からタイポグラフィック・デザインや組版を研究し、書籍や学術誌の制作に関わってきました。二人のこうした試行錯誤の経験も活かし、所期のテーマについて議論していきたいと思います。

社会福祉援助技術としての社会調査(予告です)

2010年2月7日 日曜日

oshima社会調査のうち、社会福祉分野で行われる社会調査があります。多くは「社会福祉調査」と呼び、前回触れたように社会福祉援助技術(ソーシャルワーク/ social work)のひとつとして位置付けられています。

このNPOサーベイの活動を行うなかで、社会福祉援助技術としての社会調査とは何ぞや? という点を考える機会がたびたびありました。

と、申しましても、このblogに目を通して下さる方の多くは社会福祉分野の方ではない、ように思われます。そこで、次回から数回に分けて、「社会福祉援助技術としての社会調査」をテーマに更新していきたいと思います。前提となる社会福祉援助技術の全体像にも触れつつ解説を試みます。

よろしくお付き合いください。

(つづく)

調査表現と〈参与する知〉(3)

2010年2月2日 火曜日

(前回からのつづき)

ogura拙著『高齢化社会と日本人の生き方——岐路に立つ現代中年のライフストーリー』の調査表現の試みについて、話をつづけます。

調査表現として拙著でこだわったことは、調査知見をワンショットの客観的事実として提示するのではなく、知見を得るにいたった一連の調査研究過程を〈経験の実践プロセス〉として描出していくことでした。つまり、どのようにしてその知見に到達したのかというプロセスそれ自体を、(「検証」よりも「生成」をめざす)「知」の重要な構成要素として提示したわけです。

拙著では、調査協力者である現代中年と調査研究者である私との対話実践のなかでライフストーリーが生成されていくプロセス、相互了解が得られていくプロセス、さらには縦断的(longitudinal)な3年~3年半ごしにわたる出会い(初回調査)と再会(再調査・再々調査)のなかで互いの解釈をすり合わせていくプロセスを赤裸々に描出しました。

それと同時に、その舞台裏として、調査研究者たる「私」という主体がいかにして立ち上がってきたかへの内省(問題意識の生成につながる調査研究者である私自身の生活史的経験のカミングアウト・ストーリー)を再帰的に織り込み、そういった調査研究者の経験(調査研究に臨む動機)と調査協力者の経験(調査に応じる動機)との相互作用場面(インタビュー途中で調査研究者である私が図らずも調査協力者にカミングアウトしてしまう場面や、調査協力者が調査研究者である私をどう受けとめ、どんな思いを抱いてインタビューに応じていったかを尋ねた場面など)を開示し、それらを吟味しながら、解釈や知見の生成プロセスの深層を探りました。

これらは、研究対象の経験と研究者自身の経験との出会いのプロセスをも含めた〈経験の実践プロセス〉としての調査過程それ自体を、ひとつの社会過程として位置づけて当該研究のフィールドとし、「作品」に刻み込んでいく試みでした。インタビュー(社会調査)それ自体が、拙著のキー概念でもある「人間生成」のプロセスそのものなのであり、そこに、調査協力者である現代中年の人びとと、調査研究者である私の再帰的な社会化(reflexive socialization)のプロセスが発現するわけです。

これら調査研究過程の描写をめぐるさまざまな仕掛けは、一種のパフォーマンスであるともいえ、四重めの生成のらせん(=《読者の経験との相互作用のなかでの生成》)のための、読者の経験への働きかけを企図したものでした。

拙著のライフストーリーの記述部分では、調査協力者のライフストーリーはもちろん、調査研究者である私自身の働きかけ、発話や問いかけの意図・動機、そして私自身が調査協力者の語りから感じたこと、それらも最大限露わにする記述の仕方をおこなっています。そのことによって、ききとった調査協力者のライフストーリーにばかりでなく、調査研究者・調査協力者のインタビュー場面での経験の仕方にまで読者の注意を喚起し、読者の追体験を促すという意図がそこに込められています。

そして、そこで喚起される 《調査研究者の経験》 《調査協力者の経験》 《調査研究者と調査協力者の相互作用経験》 《読者の経験》 のらせんによる新たな了解の生成こそが、拙著の メタ理論たる「生成的理論」の要諦である、という構成になっています。

いわば、それは「劇場」なのであり、拙著で上演される〈経験の実践プロセス〉に、共感であれ、反感であれ、観客としての読者がみずからの生を重ね合わせ、自身の経験と対話することで、新たな意味の生成がなされんことを企図したものでした。

(つづく)