エッセイ「ノマド:逃し続ける運動」

2012年12月1日に立命館大学にて開催される研究会議「ケイパビリティ・アプローチの臨床的展開に向けて」で、NPOサーベイ副代表の後藤が「ノマド:逃し続ける運動」と題した報告を行います。この研究会議は次のような問題を提起しているものです。

これまで理論がいささかなりとも現場に役立ったためしがあるのだろうか。医療、看護、相談、援助など、急を要する支援の現場で、悠長に構えた社会科学者の言説に何がしかの意味があるとしたら、それはいったいどんな? 個人の生の多次元性と自由(freedom)を基盤に据えるアマルティア・センの理論——20世紀社会科学の一到達点ではある——を臨床現場から批判的に検討しませんか?

後藤の報告原稿を掲載いたします。「現今の対人援助活動者の「生きられた真理」とはなにか」について考える論考です。ぜひご一読ください。

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「ノマド:逃し続ける運動」
後藤 隆

ミシェル・フーコーは、「狂気、死、犯罪あるいは性」に係る「さまざまの政治テクノロジー」について、各々よく知られている大部の著作を物した後に、「個別化する権力」、すなわち「個人を対象としながらもしかもその個人を継続的、恒常的に支配するための政治技術」に研究の焦点を移し、そうした「政治的技術」を「権力の」「牧人的様態」(以下牧人的権力と記す)と呼んだ。

牧人的権力とは、その名の通り、羊飼いが家畜の群れに対してどのようにふるまうかに喩えられ、わけても「寝ずの番」のように、「群れの安全を確保するため」の見張りに徹する姿、つまり「慈愛」や「献身」に「近い」形をとることが特徴とされる。

また、フーコーは、牧人的権力の歴史的事例として、オランダのテュルケ・ドゥ・マイエンヌのポリス構想を挙げている。その構想には次のような「生活の否定的な側面に携わる」「機関」が含まれている。

「具体的には、援助を必要とする貧困者(未亡人、孤児、老人)、それから金銭的援助(利子は求めないことになっていた)を必要とする活動に携わっている人々の面倒もみます。それだけではありません。病気、伝染病などの公衆衛生や、火災、洪水などの事故の面倒をみることにもなっていました」

これらテュルケの「貧困」「公衆衛生」「火災」「洪水」をふまえ、テュルケを通じてフーコーが挙例したかったものを、今日の用語で言い換えるなら、それは危機であり、カタストロフィであり、そして「明白な不正義(patent injustice)」であるとして差し支えなかろう。さらに、「生活の否定的な側面に携わる」「機関」とは、今日で言えば、社会保障・福祉制度とその関連組織であり、また「金銭的援助を必要とする活動に携わっている人々」とは、幅広く、医療、保健、看護、福祉等の対人援助活動者であるとみてよいだろう。

つまり、フーコーは、羊飼いにとっての家畜に喩えたヒトに降りかかる大きな危機、災い、不正義をまず想定したうえで、ヒトの「安全」「確保」に「献身」する羊飼いすなわち、テュルケ以来今日で言えば、対人援助活動者が、社会保障・福祉制度の名の下に牧人的権力を振るう者でもある、と指摘しているのである。

 ※続きは《こちらのPDFファイル》でお読みください。

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