調査表現と〈参与する知〉(5・終)

(前回からのつづき)

またまた前回からずいぶん間があいてしまいましたね。ごめんなさい。このブログ連載で展開してきた主張の要諦である〈知見の生成性〉ということを最後に確認して稿を閉じたいと思っていたのですが、ぐずぐずしているうちにあっというまに時間がたってしまいました。ですがそんな折、その要諦とシンクロするような話題が、ある研究会で議論になりました。そこで、いい機会なのでその話題を契機に、この一連のブログ連載をふりかえりながら最終稿を記したいと思います。

研究会で議論になった話題とは、こういうものでした。ライフストーリー研究では、調査過程における調査協力者(語り手)と調査者(聴き手=書き手)の相互行為を開示し、ライフストーリーを解釈・分析する調査者自身の自己反省的な語りをも俎上にのせていく「自己言及的なスタイル」が定着しつつある。しかしそれは、いったいなんのためのものであり、なにをもたらすのか。じつはそれはあまり明確に主張されていないのではないか。

なぜこのようなことが話題になったかというと、最近、ライフストーリー研究のこの「自己言及的スタイル」に対して、「誠実さゆえのある種の閉塞感を感じてしまう」「開示のための開示となり、他者不在になってはいないか」「(自己言及的スタイルが)生を創造的に捉えることにどうつながるのかわからない」といった疑念や批判を耳にするようになったからでした。

これらの疑念や批判は、ライフストーリー研究の「自己言及的スタイル」それ自体が本質的に招くような疑念や批判ではないと思います。ですが、なんのための「自己言及的スタイル」なのかという「なんのために」という部分が、本来の意図からずれて(あるいは局所的なところに偏向して)受けとめられてしまいがちな雰囲気があって(その雰囲気については、ぼく自身も強い違和感を抱いています)、それに対する疑念や批判なのではないかと考えます。

つまり、その「なんのために」が、あたかも調査(者)がどれだけ誠実かを証明するための手続きかのごとく、調査者の倫理や責任の問題に(いささかマスターベーション的に)回収されて受けとめられてしまいがちであること。それゆえ、調査者(聴き手=書き手)が調査協力者(語り手)にどれだけ寄り添えて(その実、一体化できて)いるか、あるいは逆に「わかりえなさ」をわかっているか、といったことばかりが競われるような雰囲気が醸成されてしまっていること。それこそが問題なのではないかと思うのです。

というのも、聴き手であり書き手でもある調査者は、調査協力者(語り手)の語りを創造的に異化する開かれた存在であるはずです(もちろん逆に、調査者は調査協力者によって異化される存在でもあります。そうやってお互いが変わっていくなかで新たな現実が構成されていくのです。それが第1回で「人間関係としての社会調査」「人間の相互的・社会的コミュニケーションとしての社会調査」と言ったゆえんです)。ところが、上述のような雰囲気のなかでは、調査者が内閉してしまい(コミュニケーションが相互的なものではなくなってしまい)、語りや知見が創造的でなくなってしまうからです。

では、なんのための「自己言及的スタイル」なのでしょうか。そして、それはなにをもたらすのでしょうか。

もちろん、つとに指摘されてきた、調査過程を透明化することによる知見の妥当性や信頼性の担保ということもありますし、インタビュー過程の権力性や非対称性にセンシティブになるといったこともあります。ですが、それらにも増してぼくが強調したい点は、別のところにあります(厳密に言えば、これらはいずれも地続きのことなのですが…)。

それは、調査過程=調査経験それじたいが社会過程であるという局面を作品化し、読み手に提示することによって、その社会過程に参与しながら新たな現実(意味)を構成(創出)していくという〈知見の生成性〉の担保です。ここにいう〈生成性〉とは、調査協力者(語り手)と調査者(聴き手=書き手)とのコミュニケーションによって構成される新たな現実の生成性だけではなく、そこで生成されたもの(語りや知見)が読み手とコミュニケーションされることによって構成される新たな現実の生成性も含んでいます(第2回第3回で述べた「四重の生成のらせん」を思い出してみてください)。つまり、調査協力者(語り手)、調査者(聴き手=書き手)、調査研究作品の読者(読み手)の三者が「当事者」となって、参与的にコミュニケーションすることによって新たな社会的現実を構成していくという〈生成性〉です。

ライフストーリー研究は、その「自己言及的スタイル」によって調査研究過程が開示されることによって、「研究テーマの設定(問題意識の形成)、調査する(出会う・聴く・語る)、解釈・分析する(意味づける)、書く(伝える)、読む(受けとめる)」という一連の営みが、すべて社会過程そのもの(社会関係・社会的コミュニケーション・社会的実践)としてあり、歴史的社会的文脈のなかに埋め込まれているということを生々しく突きつけます。ここに言う「調査過程」とは、研究対象の経験と研究者自身の経験との出会いのプロセスをも含めた〈経験の実践プロセス〉という意味でのそれです(第2回第3回参照)。

この〈経験の実践プロセス〉としての調査過程を記述し開示していくことは、どのようにしてその知見に到達したのかという、知見が生成されてきた〈多層多元な関係的コンテクスト〉=「生成のらせん」(第4回参照)を読者に追尾させ、読者の経験をこの「生成のらせん」に巻きこんで(関係づけて)いきます。それが、読者の実感のおよぶ範囲を押し広げ、読者の経験の参与可能性(経験の重ね合わせの可能性)を切りひらいていくのです。

たとえば、拙著の読者からつぎのような感想を寄せられることが多くあります。

「著者(=調査者:小倉補足)のバックグラウンドや調査協力者の方の人生が、私の経験として入ってきて、それが社会との関係性のなかで再度かたちづくられていくという得難い体験を得ることができました。」(50代後半の男性)

つまり、ライフストーリー研究の「自己言及的スタイル」の最大の意義(なんのためか/なにをもたらすのか)のひとつは、この「得難い体験」をパフォーマンスすることにあると思うのです。

読者が、ひとつの社会過程たるライフストーリーの生成プロセスを追体験(追試)できるようにし、そのことによって調査協力者(語り手)、調査者(聴き手=書き手)、そして調査研究作品の読者(読み手)を出会わせ(相互に関係づけ)、三者間での経験的コミュニケーションを可能にしていくこと。それによって、読者の経験を通した(つまり参与性をともなった)知見の検証と新たな現実構成の可能性をもたらすこと。その〈生成性〉にこそ、「自己言及的スタイル」の醍醐味があるのではないかと思います(いわゆる「客観性」「普遍性」も、ここに言う意味での経験的検証=コミュニケーション可能性による生成性として捉えなおすことができるのではないでしょうか)。

その意味で、ライフストーリー研究の「自己言及」は、吉田民人の言葉を借りれば「論理的自己言及」ではなく「経験的自己言及」です(吉田民人「新科学論と存在論的構築主義」『社会学評論』219号)。それは、論理的な無限後退ではなく、経験的な検証による生成的前進(人びとの経験的検証にさらされ、そこで残ったものが積み重ねられていく)をもたらしていくわけです(拙著で提示した〈経験のミメーシス的ジェネラティビティ〉概念も、そのことを含意させたものでした)。したがってそれは、「過程の存在論」(J・J・ギブソン)を基礎におき、そこに〈参与する知〉をもたらすものとして捉えられるべきではないかと思うのです。

かつて井腰圭介は『ライフヒストリーの社会学』(中野卓・桜井厚編、1995年)のなかで、ライフヒストリー研究が提示する知識が生々しい感動をともなうのは、読者の現実を巻き込んで成立するものだからだ、という示唆にとんだ指摘をしていました。まさしく〈ライフストーリーの知〉は、読者の経験を巻き込んで成立する知です。つまり、読者が上述の三者関係(人間の相互的・社会的コミュニケーションによって新たな社会的現実をつくりだしていくプロセスとしての社会過程)の当事者となり、あくまで自分との関わりにおいて新たな現実(経験)を構成していく知を提供する。だからこそ変革をもたらすのであり、そこに〈ライフストーリーの知〉の社会的実践性があると思うのです。

その意味で、〈ライフストーリーの知〉は社会的現実構成への「熟議」過程に〈参与する知〉なのであり、だからこそ調査表現の問題と不可分なのだと言えましょう。なぜなら、経験の重ね合わせ(人間の相互的・社会的コミュニケーション)を可能にする調査表現こそが〈参与する知〉を提供し、〈知見の生成性〉をパフォーマンスするからです。そのための「自己言及的スタイル」なのではないでしょうか。

このブログ連載の初回で、「私たちは、いまいちど〈人間関係としての社会調査〉という原点に立ち返り、〈人間の相互的・社会的コミュニケーションとしての社会調査〉の新たなスタイル(在り方)をつくりだしていくべきステージに立っているといえないでしょうか」と主張したゆえんも、そこにあるのです。

※今回述べたことも含め、このブログ連載で展開した主張については、拙著の「あとがき」でも詳述していますので、ご一読いただけましたら幸甚です。

(おわり)

タグ: , ,

コメントをどうぞ

コメントを投稿するにはログインしてください。