‘ライフストーリー’ タグのついている投稿

調査表現と〈参与する知〉(5・終)

2010年10月26日 火曜日

(前回からのつづき)

またまた前回からずいぶん間があいてしまいましたね。ごめんなさい。このブログ連載で展開してきた主張の要諦である〈知見の生成性〉ということを最後に確認して稿を閉じたいと思っていたのですが、ぐずぐずしているうちにあっというまに時間がたってしまいました。ですがそんな折、その要諦とシンクロするような話題が、ある研究会で議論になりました。そこで、いい機会なのでその話題を契機に、この一連のブログ連載をふりかえりながら最終稿を記したいと思います。

研究会で議論になった話題とは、こういうものでした。ライフストーリー研究では、調査過程における調査協力者(語り手)と調査者(聴き手=書き手)の相互行為を開示し、ライフストーリーを解釈・分析する調査者自身の自己反省的な語りをも俎上にのせていく「自己言及的なスタイル」が定着しつつある。しかしそれは、いったいなんのためのものであり、なにをもたらすのか。じつはそれはあまり明確に主張されていないのではないか。

なぜこのようなことが話題になったかというと、最近、ライフストーリー研究のこの「自己言及的スタイル」に対して、「誠実さゆえのある種の閉塞感を感じてしまう」「開示のための開示となり、他者不在になってはいないか」「(自己言及的スタイルが)生を創造的に捉えることにどうつながるのかわからない」といった疑念や批判を耳にするようになったからでした。

これらの疑念や批判は、ライフストーリー研究の「自己言及的スタイル」それ自体が本質的に招くような疑念や批判ではないと思います。ですが、なんのための「自己言及的スタイル」なのかという「なんのために」という部分が、本来の意図からずれて(あるいは局所的なところに偏向して)受けとめられてしまいがちな雰囲気があって(その雰囲気については、ぼく自身も強い違和感を抱いています)、それに対する疑念や批判なのではないかと考えます。

つまり、その「なんのために」が、あたかも調査(者)がどれだけ誠実かを証明するための手続きかのごとく、調査者の倫理や責任の問題に(いささかマスターベーション的に)回収されて受けとめられてしまいがちであること。それゆえ、調査者(聴き手=書き手)が調査協力者(語り手)にどれだけ寄り添えて(その実、一体化できて)いるか、あるいは逆に「わかりえなさ」をわかっているか、といったことばかりが競われるような雰囲気が醸成されてしまっていること。それこそが問題なのではないかと思うのです。

というのも、聴き手であり書き手でもある調査者は、調査協力者(語り手)の語りを創造的に異化する開かれた存在であるはずです(もちろん逆に、調査者は調査協力者によって異化される存在でもあります。そうやってお互いが変わっていくなかで新たな現実が構成されていくのです。それが第1回で「人間関係としての社会調査」「人間の相互的・社会的コミュニケーションとしての社会調査」と言ったゆえんです)。ところが、上述のような雰囲気のなかでは、調査者が内閉してしまい(コミュニケーションが相互的なものではなくなってしまい)、語りや知見が創造的でなくなってしまうからです。

では、なんのための「自己言及的スタイル」なのでしょうか。そして、それはなにをもたらすのでしょうか。

(さらに…)

調査表現と〈参与する知〉(4)

2010年3月17日 水曜日

(前回からのつづき)

前回からすこし間があいてしまいましたね。ごめんなさい。
私が担当しているこの一連のブログでは、調査表現をめぐる問題を、私が社会調査の営みにおいて実践してきた〈ライフストーリーの知〉の観点から、拙著の調査表現の試みを事例にして考えています。
今回は、拙著の調査表現の試みに込めた学問的意味を、とくに研究の社会的実践性をどう考えるかという観点から述べてみたいと思います。

これまで見てきたような拙著の調査表現(作品提示)の手法は、研究作品によって読者の経験を触発することも、学問の実践性として社会生成の重要な回路ではないか、という考えから編み出したものでした。それは、第1回めのブログ(2009年11月21日付)で指摘した、学問(社会調査)それ自体が社会過程の一部であるという認識を、作品=表現として具体化する作業でもありました。

拙著でのインタビュー調査によって構成された知見に、〈〈経験〉のミメーシス的ジェネラティビティ〉という概念があります。これは、「個人vs社会」の枠を超え出て紡がれていく〈経験〉(生活経験・身体経験・生命経験の重層的連なりとしての根源的経験という意味で山型カッコをつけています)の生成継承性を概念化したものでした。旧世代の〈経験〉が新世代によってミメーシス的に継承され、再構成され、新たな生(life)が生成されていく、そんな存在論的つながりです。

拙著では、前回(第3回)のブログで見たような調査表現(ライフストーリーの提示手法)をとることで、本調査研究の一連の〈経験の実践プロセス〉(前回指摘した三重の生成のらせん)を読者に追体験してもらい、そうすることで、インタビュー調査によって発現した〈経験〉が読者にミメーシスされる(みずからの生をそこに重ね合わせ、創造的に学ばれる=真似ばれる)ことを企図したわけです。

それは、研究作品それ自体を通じた〈〈経験〉のミメーシス的ジェネラティビティ〉の惹起、という社会的実践性を意識してのことでした(いわば調査知見と再帰的な調査表現によって、知見を読者に伝えていく試みでした)。その意味で、拙著で試みた調査表現は、研究の社会的実践性をどう考えるのかという問題と不可分な関係にあるわけです。

上述のような〈経験の実践プロセス〉が分厚く記述されることは、とくにライフストーリー研究の調査表現においてきわめて重要なことであると私は考えています。それは、そのプロセスの描出が調査協力者のライフストーリーの文脈(社会的位置づけや背景)を明確化するという意味をもち、知見や解釈の妥当性や信頼性にかかわってくるからということももちろんあります。ですが、それだけにとどまらず、なによりもそのプロセスを提示することで、拙著の知見が読者自身の経験のストーリーの再構成(生成)へと開かれていくからです。

つまり、どのようにしてその知見に到達したのかという、知見が生成されてきた〈多層多元な関係的コンテクスト〉=生成のらせんを読者に生々しく突きつけ、そのことによって読者の経験の参与可能性(経験の重ね合わせの可能性)が開かれていくからです。そして、これこそが〈ライフストーリーの知〉が切り拓く研究の社会的実践性であると考えます。

かつて、内田義彦は「社会科学でも思想としての滲透力、心のうちに深く入ってそこから働きかける力を一般の人に対してももっていなければならない」(内田義彦『作品としての社会科学』岩波書店)と述べました。また、ケネス・J・ガーゲンは「理論の文化的参加の文脈」の重要性を指摘しながら、「この文脈において最も重要なのは、様々な文化的参加を呼びかけうる人間科学的対話である。文化は、いかにして、科学の中核的命題を、自らの実践のために利用するのか? どうすれば、科学者コミュニティを、文化の声に耳を傾ける開かれたコミュニティにすることができるのか? 科学の中核的命題群のもつ文化的価値を探るために、どのような自省的プロセスがスタートできるだろうか?」(ケネス・J・ガーゲン『社会構成主義の理論と実践――関係性が現実をつくる』ナカニシヤ出版)と問いかけています。

〈ライフストーリーの知〉は、この「人間科学的対話」の幅=コミュニケーションへの参与可能性を広げ、深めていく役割を担っていると思うのです。つとに指摘されてきた「ライフストーリーを提示する」という回答の仕方がもつ意味(井腰圭介「記述のレトリック――感動を伴う知識はいかにして生まれるか」中野卓・桜井厚編『ライフヒストリーの社会学』弘文堂 所収)のひとつも、こ こにあると考えます。その意味で、ライフストーリー研究を「作品」という言葉で表現するのは、「人々の心に直接にうったえる文学作品に通ずる文体や構成を示唆するとともに、社会科学の研究と表現についての方法概念」(長幸男「解題」内田義彦『作品としての社会科学』岩波書店 所収)でもあるからではないでしょうか。

学知が生成される学問活動の土壌は、人びとの〈経験〉の土壌と地続きであり、研究という営みは、その地続きの土壌における関係性のなかで実践的に検討され、吟味されていくべきものでしょう。
拙著の調査表現の試みは、この関係性が現実をつくっていくプロセス=社会的実践性のなかに学問(社会調査)があるということを再帰的に自覚し、そこに参与していくための学的表現の試みだったのです。

(つづく)