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「盲ろう者へのインタビュー調査に挑む」記録(2)

2011年8月8日 月曜日

去る7月23日に開催された研究会「盲ろう者へのインタビュー調査に挑む――通訳介助者から調査者へ」の様子をお伝えしています。第2回目の今回からは出席者の方々の声をを紹介します。

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社会調査論、調査方法論の観点からのコメントを紹介したいと思います。

有末賢さん

「障がい者の就労に関する研究」となると、社会福祉学の領域に入ることになるが、「社会調査論」として重要になるのが、支援者→調査研究者になっていく意味について考えることであると思った。
インタビュー調査上の困難をもうすこし分類して、(1)対面性の困難、(2)言語手段の困難、(3)感情と共感の問題などにおいて、それぞれの調査上の問題をつむぎ出していくことが重要なのではないでしょうか。

岩舘豊さん

リアリティを損なわない分析は、自分自身にもはねかえってくる問いでした。インタヴュー法の難しさと可能性を考えさせてくれる話題提供だったと思います。ありがとうございました。

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どうもありがとうございました。当日の模様については当ブログ8月5日付記事の印象記などもご参照ください。

調査表現と〈参与する知〉(5・終)

2010年10月26日 火曜日

(前回からのつづき)

またまた前回からずいぶん間があいてしまいましたね。ごめんなさい。このブログ連載で展開してきた主張の要諦である〈知見の生成性〉ということを最後に確認して稿を閉じたいと思っていたのですが、ぐずぐずしているうちにあっというまに時間がたってしまいました。ですがそんな折、その要諦とシンクロするような話題が、ある研究会で議論になりました。そこで、いい機会なのでその話題を契機に、この一連のブログ連載をふりかえりながら最終稿を記したいと思います。

研究会で議論になった話題とは、こういうものでした。ライフストーリー研究では、調査過程における調査協力者(語り手)と調査者(聴き手=書き手)の相互行為を開示し、ライフストーリーを解釈・分析する調査者自身の自己反省的な語りをも俎上にのせていく「自己言及的なスタイル」が定着しつつある。しかしそれは、いったいなんのためのものであり、なにをもたらすのか。じつはそれはあまり明確に主張されていないのではないか。

なぜこのようなことが話題になったかというと、最近、ライフストーリー研究のこの「自己言及的スタイル」に対して、「誠実さゆえのある種の閉塞感を感じてしまう」「開示のための開示となり、他者不在になってはいないか」「(自己言及的スタイルが)生を創造的に捉えることにどうつながるのかわからない」といった疑念や批判を耳にするようになったからでした。

これらの疑念や批判は、ライフストーリー研究の「自己言及的スタイル」それ自体が本質的に招くような疑念や批判ではないと思います。ですが、なんのための「自己言及的スタイル」なのかという「なんのために」という部分が、本来の意図からずれて(あるいは局所的なところに偏向して)受けとめられてしまいがちな雰囲気があって(その雰囲気については、ぼく自身も強い違和感を抱いています)、それに対する疑念や批判なのではないかと考えます。

つまり、その「なんのために」が、あたかも調査(者)がどれだけ誠実かを証明するための手続きかのごとく、調査者の倫理や責任の問題に(いささかマスターベーション的に)回収されて受けとめられてしまいがちであること。それゆえ、調査者(聴き手=書き手)が調査協力者(語り手)にどれだけ寄り添えて(その実、一体化できて)いるか、あるいは逆に「わかりえなさ」をわかっているか、といったことばかりが競われるような雰囲気が醸成されてしまっていること。それこそが問題なのではないかと思うのです。

というのも、聴き手であり書き手でもある調査者は、調査協力者(語り手)の語りを創造的に異化する開かれた存在であるはずです(もちろん逆に、調査者は調査協力者によって異化される存在でもあります。そうやってお互いが変わっていくなかで新たな現実が構成されていくのです。それが第1回で「人間関係としての社会調査」「人間の相互的・社会的コミュニケーションとしての社会調査」と言ったゆえんです)。ところが、上述のような雰囲気のなかでは、調査者が内閉してしまい(コミュニケーションが相互的なものではなくなってしまい)、語りや知見が創造的でなくなってしまうからです。

では、なんのための「自己言及的スタイル」なのでしょうか。そして、それはなにをもたらすのでしょうか。

(さらに…)

社会調査懇談会コメント(2)

2010年8月16日 月曜日

社会調査懇談会「その悩みや思いを語る」にご出席くださった方々からさまざまなコメントを頂戴しました。

そのいくつかをこのブログで紹介しています。第2回目は林健太郎さんから寄せられたコメントです。以下引用します。

調査そのものに関する知識がないので、お話しを聴きながら考えさせていただきました。

そもそも研究という手法が非常に制限された、バイアスのかからざるを得ないものであるという認識がある中で、アンケート調査というもの自体が、解答者にとって“稚拙である”と感じられるようなものであったとしても、その一般化された結果を、自らの視点に基づいて、新しい知見を生み出すことに意義があるのであって、アンケートの方法論それ自体について、される人の視点を考えすぎるのでは良くないのではと思いました。

半ば逆説的に、そもそも研究から主観性は取り除けないでしょうから、研究者ご本人が現場に依拠している、つまり立場について深く考える必要があるのでしょうか……。

どうもありがとうございました。当日配布された参考資料についてはこちらからダウンロードできます。当日の模様については当ブログ8月11日付記事の印象記もご参照ください。

「調査という表現」コメント(3)

2010年5月31日 月曜日

研究会「調査という表現」にご出席くださった方々からさまざまなコメントを頂戴しました。

そのいくつかをこのブログで紹介しています。第3回目は匿名の参加者から寄せられた、小倉報告へのコメントです。以下引用します。

「三重の生成のらせん」のプロセスについて。

読者の経験の中での生成、読者と調査研究者(著者)との相互作用の中での生成を触発する可能性。一方でこれは、どのようなタイプの調査でも、その質は違えど生じているものと考えられる。いわゆる「科学的」文体は、このような重層的な「らせん」生成を “コントロール” するための手続きとみることができるのではないか。

逆にいうと、参与可能性を高めることは、予測不可能性を高めることでもある。読者の共鳴をひきおこすとともに、不協和音を発生させることもありうる。インタラクティブな調査とは、こうしたリスクを引き受けることでもあると感じた。あるいは、このプロセスを、いわゆる「科学」とは異なる仕方で、どうコントロールするか関心があります。

どうもありがとうございました。なお研究会での報告レジュメはこの記事(小倉)この記事(松尾)でご覧になれます。

調査表現と〈参与する知〉(3)

2010年2月2日 火曜日

(前回からのつづき)

ogura拙著『高齢化社会と日本人の生き方——岐路に立つ現代中年のライフストーリー』の調査表現の試みについて、話をつづけます。

調査表現として拙著でこだわったことは、調査知見をワンショットの客観的事実として提示するのではなく、知見を得るにいたった一連の調査研究過程を〈経験の実践プロセス〉として描出していくことでした。つまり、どのようにしてその知見に到達したのかというプロセスそれ自体を、(「検証」よりも「生成」をめざす)「知」の重要な構成要素として提示したわけです。

拙著では、調査協力者である現代中年と調査研究者である私との対話実践のなかでライフストーリーが生成されていくプロセス、相互了解が得られていくプロセス、さらには縦断的(longitudinal)な3年~3年半ごしにわたる出会い(初回調査)と再会(再調査・再々調査)のなかで互いの解釈をすり合わせていくプロセスを赤裸々に描出しました。

それと同時に、その舞台裏として、調査研究者たる「私」という主体がいかにして立ち上がってきたかへの内省(問題意識の生成につながる調査研究者である私自身の生活史的経験のカミングアウト・ストーリー)を再帰的に織り込み、そういった調査研究者の経験(調査研究に臨む動機)と調査協力者の経験(調査に応じる動機)との相互作用場面(インタビュー途中で調査研究者である私が図らずも調査協力者にカミングアウトしてしまう場面や、調査協力者が調査研究者である私をどう受けとめ、どんな思いを抱いてインタビューに応じていったかを尋ねた場面など)を開示し、それらを吟味しながら、解釈や知見の生成プロセスの深層を探りました。

これらは、研究対象の経験と研究者自身の経験との出会いのプロセスをも含めた〈経験の実践プロセス〉としての調査過程それ自体を、ひとつの社会過程として位置づけて当該研究のフィールドとし、「作品」に刻み込んでいく試みでした。インタビュー(社会調査)それ自体が、拙著のキー概念でもある「人間生成」のプロセスそのものなのであり、そこに、調査協力者である現代中年の人びとと、調査研究者である私の再帰的な社会化(reflexive socialization)のプロセスが発現するわけです。

これら調査研究過程の描写をめぐるさまざまな仕掛けは、一種のパフォーマンスであるともいえ、四重めの生成のらせん(=《読者の経験との相互作用のなかでの生成》)のための、読者の経験への働きかけを企図したものでした。

拙著のライフストーリーの記述部分では、調査協力者のライフストーリーはもちろん、調査研究者である私自身の働きかけ、発話や問いかけの意図・動機、そして私自身が調査協力者の語りから感じたこと、それらも最大限露わにする記述の仕方をおこなっています。そのことによって、ききとった調査協力者のライフストーリーにばかりでなく、調査研究者・調査協力者のインタビュー場面での経験の仕方にまで読者の注意を喚起し、読者の追体験を促すという意図がそこに込められています。

そして、そこで喚起される 《調査研究者の経験》 《調査協力者の経験》 《調査研究者と調査協力者の相互作用経験》 《読者の経験》 のらせんによる新たな了解の生成こそが、拙著の メタ理論たる「生成的理論」の要諦である、という構成になっています。

いわば、それは「劇場」なのであり、拙著で上演される〈経験の実践プロセス〉に、共感であれ、反感であれ、観客としての読者がみずからの生を重ね合わせ、自身の経験と対話することで、新たな意味の生成がなされんことを企図したものでした。

(つづく)