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『社会調査叙説』第1回

2011年2月21日 月曜日

後藤隆著『社会調査叙説:影操りの世界定め』を連載しています。今回は第1回目として「序」の部分を掲載いたします。この連載については、本ブログ2月18日付記事「連載開始のご挨拶」もご参照ください。

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社会調査叙説:影操りの世界定め

 本論に先立って、表題の後半「影操りの世界定め」に簡単な説明を加えておいた方がわかりやすいだろう。

 「影操りの世界定め」の内、「世界定め」がおそらく最も耳慣れないものだろうが、これはもともと歌舞伎の用語である。歌舞伎では、顔見世興行や春興行において、どのような時代背景、人物設定をもち、どのような事件などを扱った作品を演じ示すかを、予め、既に観客に受け入れられ「当たり」をとった前例などを手本に、劇場主(太夫元)や脚本家(立作者)が打ち合わせをする。この打ち合わせを通じて、ある年のある興行ではおおよそこんな芝居を披露すると決めることを、「世界定め」と呼ぶのである(木下康二『歌舞伎の話』、講談社学術文庫、2005、153-154頁)。筆者は、その「世界定め」に社会調査をなぞらえることが、等身大の社会調査を理解するにあたって、適切だと考えている。

 では、「世界定め」になぜ「影操りの」と条件が付くのか。

 それを説明するには、「影」が、一般に言えばデータに対応するものであることから始めなければならない。

 言うまでもなく、データは、およそ社会調査について論じようとするならば、その基幹と目されて相違ない。つまり、社会調査とはデータをえようとする活動のことであり、データとして記録する活動であり、データを分析する活動である。そうした活動をどのように実現するかについての実用的な手続きを整理したものが、いわゆる社会調査法やデータ分析(技)法と呼ばれるものである。 

 しかし、data の単数形 datum がもともと「与えられたもの」を意味するにせよ、社会調査を論じるにあたって、データが既にある形で手元にあることから口火を切るならば、明らかに拙速であり、なにかを素通りしている。

 なにか?

 ※続きは《こちらのPDFファイル》でお読みください。

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『社会調査叙説:影操りの世界定め』連載開始のご挨拶

2011年2月18日 金曜日

NPOサーベイの理事、監事、会員のみなさん、これまでNPOサーベイの研究会に参加してくださった方々、そしてこのホームページやブログに意見をお寄せくださったり、関心をもって読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。

副代表の後藤隆です。

と名乗るのもおこがましく、立ち上げの段階から一貫して精力的に手際よくしかも何の曇りもなくNPOサーベイの活動をリードしてくれているのは、まちがいなく松尾浩一郎代表で、私の方は「こんなことできたらいいね」の言い放しレベルに停滞し、とくにここ1年間は、ホームページへの投稿はおろか、大事な研究会にも顔を出さずに過してしまいました。

突き詰めれば本性怠惰に尽きるのですが、2009年11月15日未明我が家の奇禍も、既にお聞きおよびかもしれませんが、理由のひとつに挙げることが許されるかもしれません。

私たち家族は、そのために、確か1000万円×n(1≦n<3?)単位の本や学術誌、資料等を失いました。(災難直後は、関係機関に被害届を出すために、もう少し正確に勘定しました。なぜか今は思い起こそうとしても霞みがかかってしまいます。家具、電気用品等に比べ、圧倒的に「本代」が多く、担当官に念を押された覚えがあるので、それほどまちがってはいないはずです。)

もっとも、私の妻も研究職ですので、私個人所有で失ったものは、ざっとその半分程度。点数ははっきりしませんが、実際、我が家では、10棹以上のスライド式本棚に加え階段にも本、資料が積み上げられていましたから、図書館とまではいかないまでも、たとえて言えば大学の学科図書(資料)室程度はあったのだろうと思います。そして、その私個人分のほとんどが、実は、社会調査関連のものでした。

例えば、アメリカの労働生活調査『ピッツバーグ・サーベイ』全巻、アメリカ移民生活調査『ポーランド農民』全巻、それからスタウファー率いるいわゆる現在の「科学的」社会調査の原型『アメリカ兵研究』全巻を失いました。

(こう挙げてみると、あるいはお気付きかもしれませんが、仮にアメリカの社会調査史をまとめようとするならば、これらに、リンドの2度の『ミドルタウン』調査、そしてエラボレーションによって現今の因果推論の先取り(後述)をしただけでなく潜在構造分析をも開発したラザースフェルドの一連の業績を加えれば、必要十分とまではいきませんが、ラフスケッチにはなるでしょう。そう言えば、この2つについても失いました。)

結局、私は、多くの方のお力をお借りもし私なりに尽力もし、集めた研究資料をほとんど失うことになったわけです。幸い、勤務先研究室に置いておいたもの、研究室のPCにファイルで残しておいたものがあり、それがさしあたりこの1年間の私の研究教育活動を支えてくれてはいます。ですが、本格的なひとまとまりのものを仕上げようとすると、やはり失った資料の穴は思いの外大きく、また「霞み」と書きましたが、失った資料のことを思い起こすことそのものが、今もおそらくこれからも、どうも難しいようなのです。

奇禍後しばらくは、公的機関、金融機関、医療機関等との煩瑣なやりとりに追われていた私も、最近になって、ようやく本来の自分の仕事に不安を感じることができるようになりました。これも、様々な方々のご支援でとにかく生き延び、仕事にまで気が及ぶようになった証左ではあるのですが、一旦そう感じると、例えば定年まであと10年しかないとか、論文はどうするとか、あれこれ思い浮かべた挙句、ついにはやはり失った資料の穴を慨嘆することに立ち戻る、そういう循環を何度も繰り返してきました。

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「社会調査叙説:影操りの世界定め」という一風変わった表題をもつこの連載は、私にとっては、その悪循環を絶つために、今私が私の専門分野、すなわち社会調査と関わって書けることのすべてであり、なおかつ、いずれの作業にせよ小分けにせざるをえない心身の現状からしてベストの表現方法だと考えます。

もちろん、相変わらず、歯がゆい制約の下での作品であることに変わりはありません。

ただ、不思議なことに、制約ゆえに、初めてくっきりと、書き残しておかなければならないと、自分の中で確かめうるものもあるようなのです。

連載中のご感想、ご意見など、大いに歓迎します。
NPOサーベイの素材のひとつにでもなれば、願ってもないことです。

言うまでもなく、この連載内容はあくまで後藤個人の考えに基づくもので、文責ももちろん後藤にあります。NPOサーベイとしての方向性や活動とは切り離してお読みくださるようお願い致します。

また、上記のような経緯から、引照の多くは後藤の記憶頼りであり、出典明記については、後の追補作業とさせていただくことも、予めお断りしておくべきでしょう。後藤が読解し記憶した内容と原典との間に齟齬が起こりうる危険があります。また、原典をみつけられぬまま関連解説書を引照すること、つまり厳密に言えば孫引きも差し当たりご容赦頂きたくお願い申し上げます。

そのうえで、少なくともアカデミック・ライティングの最低線はクリアできるよう、できるだけ注意を払いますが、この点についても、御指摘など頂ければ幸甚です。