またまた前回からずいぶん間があいてしまいましたね。ごめんなさい。このブログ連載で展開してきた主張の要諦である〈知見の生成性〉ということを最後に確認して稿を閉じたいと思っていたのですが、ぐずぐずしているうちにあっというまに時間がたってしまいました。ですがそんな折、その要諦とシンクロするような話題が、ある研究会で議論になりました。そこで、いい機会なのでその話題を契機に、この一連のブログ連載をふりかえりながら最終稿を記したいと思います。
研究会で議論になった話題とは、こういうものでした。ライフストーリー研究では、調査過程における調査協力者(語り手)と調査者(聴き手=書き手)の相互行為を開示し、ライフストーリーを解釈・分析する調査者自身の自己反省的な語りをも俎上にのせていく「自己言及的なスタイル」が定着しつつある。しかしそれは、いったいなんのためのものであり、なにをもたらすのか。じつはそれはあまり明確に主張されていないのではないか。
なぜこのようなことが話題になったかというと、最近、ライフストーリー研究のこの「自己言及的スタイル」に対して、「誠実さゆえのある種の閉塞感を感じてしまう」「開示のための開示となり、他者不在になってはいないか」「(自己言及的スタイルが)生を創造的に捉えることにどうつながるのかわからない」といった疑念や批判を耳にするようになったからでした。
これらの疑念や批判は、ライフストーリー研究の「自己言及的スタイル」それ自体が本質的に招くような疑念や批判ではないと思います。ですが、なんのための「自己言及的スタイル」なのかという「なんのために」という部分が、本来の意図からずれて(あるいは局所的なところに偏向して)受けとめられてしまいがちな雰囲気があって(その雰囲気については、ぼく自身も強い違和感を抱いています)、それに対する疑念や批判なのではないかと考えます。
つまり、その「なんのために」が、あたかも調査(者)がどれだけ誠実かを証明するための手続きかのごとく、調査者の倫理や責任の問題に(いささかマスターベーション的に)回収されて受けとめられてしまいがちであること。それゆえ、調査者(聴き手=書き手)が調査協力者(語り手)にどれだけ寄り添えて(その実、一体化できて)いるか、あるいは逆に「わかりえなさ」をわかっているか、といったことばかりが競われるような雰囲気が醸成されてしまっていること。それこそが問題なのではないかと思うのです。
というのも、聴き手であり書き手でもある調査者は、調査協力者(語り手)の語りを創造的に異化する開かれた存在であるはずです(もちろん逆に、調査者は調査協力者によって異化される存在でもあります。そうやってお互いが変わっていくなかで新たな現実が構成されていくのです。それが第1回で「人間関係としての社会調査」「人間の相互的・社会的コミュニケーションとしての社会調査」と言ったゆえんです)。ところが、上述のような雰囲気のなかでは、調査者が内閉してしまい(コミュニケーションが相互的なものではなくなってしまい)、語りや知見が創造的でなくなってしまうからです。
では、なんのための「自己言及的スタイル」なのでしょうか。そして、それはなにをもたらすのでしょうか。