連載「NPOサーベイ、調査を語る」の第5回目をお届けします。東京大空襲の調査について木村豊らサーベイのスタッフたちで語り合っています。前回は「現場」で話しをきく、という手法について考えましたが、今回はそれをさらに展開させていきます。なぜ「現場」にこだわるのか? そこには「現場」に沈殿している何ものかをすくいとりたい、という願いがあるのです。
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沈殿しているものをすくいとる
(上村)木村さんのリサーチクエッションっていうのは、どういう内容でどういう風に設定をされてますか。いろいろ変わったりするんでしょうけど。
(木村)調査ごとに違いますよね。何に調査に行くのかによっても違いますし、そのとき考えてることによっても。
(上村)慰霊堂の前で調査をするときは?
(木村)あそこで聞き込みをするときは、本当に、スタンダードな聞き込みで、えっと、どこから来たのか,何歳ぐらいで、亡くなった人との関係は何かで、後は、毎年来ているのかとか、今年来てどう思ったのかとか、すごい単純なことを聞いて。
(上村)それだけですか。
(木村)あそこでは何時間もできないので、10分20分とすると……。
(上村)例えば、今のご心境は、みたいなことは聞いたりしないんですか。
(木村)もともと設定している質問としてはさっき挙げたぐらいですね、何のためにここに来るんですかとか。
「沈殿しているものを感じたい」
(松尾)現場にいるっていうか、調査者がデータ収集に行ってどんな経験をしているかに興味があって聞きたいんだけど、その聞き込みの場で観察したり感じたこととかを、研究にどう生かしているかとか、教えてくれますか?
(木村)私が横網町公園のあの慰霊堂に調査をする一番の目的は、遺族会にも入っていない、自分で体験記も書いていない、家族にも話していない人が、毎年3月10日だけあそこに行って、空襲で亡くなった父親だったり母親だったりに対して、ただお参りをするってこと、戦後何の補償もなく大変な思いをしてきたのを、毎年のお参りだけで、こう、とどめておくっていうことを、なんか、そういうのを積み重ねていくと……。
最近の社会学だとインタビュー調査が流行っていて、語られることとか、すごく表に出るようなことが、社会なんだってされているような感じがするんですけど、でも私は、人の中に、こう、とどまっているっていうか、沈殿していくような社会みたいのがすごく感じて。横網町公園に行って、それが自分の中にも、他の調査とは違うものとして入ってきた、蓄積されてきたっていう感じです。
(松尾)その沈殿しているものを調査して捉える手法としては、木村君はどういう風な工夫をしてそれをくみ上げようとしてるんでしょう?
(木村)どこまでできるかっていうのは分からないんですけど、慰霊堂に来た人の話なんかは、こんなこと家族にも話したことないんですとか、今日も、ちょっと買い物に行くって言って出てきましたとか、そういう、それぞれの日常の中に、こう、慰霊堂にお参りすることがすべり込ませているような感覚っていうのを、調査の中で抽出しているっていうのが……。
(松尾)そういう沈殿しているものを引き出すっていうのでは、岩舘さんは、映像という全然違うやり方だけど、意識してるんじゃないですか?
(岩舘)言葉にならないことへの着目っていうのでは、そうかもしれないですね。映像のいいところは、やっぱり、しゃべってる人の横で、誰がどういうふうな表情でその人を聞いてるかとかも記録として残るっていうことですね。トランスクリプトに起こしちゃうと残らないんですけど、言葉にしてくれないことでも何かヒントになったりするんです。
(松尾)今日あった出来事でいったら、江戸東京博物館の裏にあった言問橋の欄干を見て、ここの影がとか、そこの傷がとか、そういうものを見ることで沈殿しているものをすごく感じたなって。やっぱり、そうやって何かを引き出せるものっていうのはとても大事。
(松尾)こうして今まで話してきて、沈殿している物を引き出すこととか、現場に居合わせることというのが、キーワードになっているような感じがします。
「現場に居合わせる調査」
(岩舘)居合わせるっていうのはすごい大事なキーワードだなって、でも、木村さんが途中でいってくれたように、居合わせたからと言って、何か、分かった気になっちゃいけない、変な現場中心主義になっちゃうからいけない。だから、居合わせることによって、分かるもの分からないもの、見えるもの見えないものみたいなものの理解は必要だと思いますけど、その場に居合わせることで、体の動きだとか身体とか、その場の音とか匂いとか雰囲気とかも共有したうえで、あるものを聴くっていうのは、大事なんだなって思うんですよ。
(松尾)そこにいればすべてが見えるわけじゃないっていうのは、本当にその通りだと思います。あと、居合わせることの意味はもうひとつあると思うんです。というのは、直感というか、そこにある小さな一部分から全体を想像することができる。もちろんそれは間違っていることもいっぱいあるでしょう。たとえば慰霊碑に行ったとして、偶然その日はいつもと違って掃除されていなかったとか、いろいろなことがあるはずです。でも、何度も何度もそこに行くことで、そこで見て自分で作ったイメージが、崩されたり、作り変えられたり。そういう意図をもって同じことを繰り返していくことも必要だと思います。
(木村)そうですね、最初はもう全然、体験っていうのはばらばらな感じ、それこそ範囲が広いので、ばらばらな感じがしてたんですけど、増えていくと、恐らくこの人とこの人は、3月10日の何時ごろにここで同じところにいたんじゃなかとか、すれ違ってたんじゃないかとかいうのがあって、話してみると、本当にすれ違ってたかもしれないねっていうのが、あったりして。どんどん、違う、全体像とは違うんですけど、見え方が変わってくるんです。
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つづく。