連載「NPOサーベイ、調査を語る」の第6回です。東京大空襲調査をめぐる座談会が続いています。前回は〈容易に語られ得ない、沈殿していくような社会〉とでも言うべき〈何か〉を、いかにして調査するのかが話題になりました。今回はその続きです。そこに居合わせることの意味とは?
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そこに居合わせること
(岩舘)毎年慰霊堂に行くって話だけれども、後から聞くのと、その場に居合わせて聞くのでは違うっていうのはすごく分かる。あとからこういうことがあったんですよって、事実レベルで同じことを聴いていることなんだけども、その場に自分も居合わせて、時間と場所を共有しながら、ここにいるんだよねっていうのを聞くっていうのは、質的に違う。居合わせるっていう感覚っていうのは、すごく分かります。
(松尾)それは岩舘さんが映像を撮っているから感じられること?
(岩舘)そうですね、そういう意味合いもあります。後から詳細に詳しく事実を聞き取るのに比べれば、そこで取ったフィールドノートっていのは、事実としては不十分かもしれないですけど、その場に居合わせてしまうと、そこで巻き込まれてるわけだから、ぐじゃぐじゃなんだけども、大事なものをつかんでたりするんですよね。それって、居合わせないといけなくて。
(松尾)居合わせることで伝えていくっていうのは、基本的にジャーナリストが本領発揮するところじゃない? あまり区別しなくていいかもしれないけども、あえて区別するなら、ともかく居合わせるっていう考え方と、いわゆる研究をするっていう考え方みたいなものがあって、それがどういうふうな割合で組み合わさっているのか興味があるんだけど。木村君はそういうことについて何か意識したことありますか?
(木村)やっぱり、けっこうメディアの人と一緒になるので、自分とどういう距離があるのかっていうのは考えるんですけど、最初のころは、すごい敵対していたような感じがありました。メディアの人はちょっと話をしていても、自分の方が詳しんだっていうような雰囲気がすごくあって。何も分かってないのに研究とか言いやがってみたいな感じがして。その頃はなんだって思ってたんですけど、年数重ねると、当然こちらの方が詳しくなって。なんか、がんばってるなっていうか。メディアとは距離をとるっていうよりも、近いものとし見るようになったって感じがします。
(松尾)岩舘さんは?
(岩舘)あんまり分けてるとか、差別化をはかろうとかって、自分の中では思ってないですね。ただ、自分が調査している労働運動の現場でも、結構一時期話題になったのでメディアの人が来るようになったんですけど、やっぱり、基本的に短いですよね。記者としても短い、いる時間も短い。で、あらかじめ撮るもの定めてきてて、撮って帰るっていう。
確かに居合わせているし、いるんだけど、それはその場に行くのが情報を取るのに一番早いから来ているって感じで、その場にいて、そこで撮ってる、産地直送で生で情報送るっていう発想の方が強い。なので、そこに行って何かを、その居合わせたものを大事にするって感じではない気がしたんですよ。そこに行くのが一番情報収集として早いからだって。そこに一番たくさんいい情報があるっていう、そこの点では共通するんだけど、それをもとに、じゃあ,別の見方なり、複数の見方が実はあるんだって、発想はあんまりない気がして。
いいフィールド調査は、むしろそれが崩れていくときじゃないですか。フィールドに入って崩れていくときに、やっぱりいい調査ができてくると思うので、特に大きなジャーナリズムは、短時間で取材を終えて次の現場に行かなくちゃいけない。スケジュールが組まれてるから、それで行って、ストーリー崩れましたって、たぶん言えない、そこは時間考えてる、データ処理の速度が尺が違うんだろうなって。
(松尾)同じところに居合わせていても、見えるものが同じとも限らないしね。そういう意味で、居合わせるっていうのを木村君も大事にしてるんだろうけども、いれば見られる、分かる、感じるっていうのは、必ずしもイコールではないでしょう?
(木村)居合わせたからと言っても、自分が見ているものをすごい知ったようなつもりになっているけれども、自分が見たものは、ごく一部でしかないってことは当然すごくありうることだとは思います。でも私の場合でいうと、恐らく来年も来るだろうという想定があるので、今年は、ここが見れればいいっていう方が強くて、そもそも、一年や二年じゃあ、あの、論文になるとは思ってはいないですし。
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議論はだいぶ佳境にさしかかってきました。次回はとりあえずのまとめになります。(つづく)